書くこと〜日記と言葉〜

昔の自分の文章が下手すぎて読んでいられない。恥ずかしい…。

 

主語と述語が合っていない。だらだら長い。

話し言葉(方言)と書き言葉が混ざってる。

不自然なところで読点を打ってる。

やたらと「!」や「?」、(≧▽≦)を使ってる。

何なのよ、その表情。テンション高すぎでしょ。(≧▽≦)♡(≧▽≦)


まあこうは言うけども、今でも文章力は大して向上してないし、それなのに はてブもインスタもやっちゃってるし、現在進行形で黒歴史を量産してる。

 

では、なぜ私は書き続けるの?

それは、書くことが私の “救い”になるから。

 

ボキャブラリーは少ない。脳内の辞書からその刹那の感情にぴったりな言葉を探し出すのは、数学の方程式を解くより難しい。

だけど、とてもとても楽しい作業だ。

 

私の言葉がなければ見えてこないものが私の日々にはあると思う。いや、ある。必ず。

 

私は、4年ほど前から日記をつけている。

その瞬間に感じたことや今日の出来事を日記アプリにひたすら打つ。

そうすることで、私は「今日」を「今日」という箱に閉まっておける。

 

書かなければ、感情は日々刻々と変化するから、初心は誰にも思い出されないものになってしまう。

日記があるから、私はいつでも引きこもりの中学生に戻れるのだ。(≧▽≦)✨

 

辛かったこと、楽しかったこと、私の人生の何一つ、なかったことにしてやんないんだからね。

全部全部、将来の私が生かす。意味のあったことにする。“正解だった選択”にする。

そのためには、感情の記録をする必要がある。だから私は日記を続けている。

 

絵を書くことも、音楽を奏でることも、身体を動かすこともそれほど得意ではない私にとって、「言葉」は大切なものだ。

 

下手でも歪でも恥ずかしくても、続けることは何かを変えるはず。

 

信じるしかない。


小説家の夢なんて、もう公言できる歳でもないのに。書けば書くほど、自分が“書けない側”であることを痛感するのに。
私は、文学部志望だ。

 

過去の日記は未来の人を救う。

言葉は人を救う。

本は人を救う。

図書館は人を救う。

(図書館が好きだというお話はまた別記事で書きたい)

 

書き続けるしかない。

 

 

いつか、このブログを読み返したときに、上手く赤ペンを入れられる大人になりたい。

 

 

 

 

 

お題「わたしの黒歴史」